少し気が楽になった気がする

奇跡的に就職ができました( ;∀;)

てっきり一生フリーターかと覚悟していたが、部品メーカーの工場に自分の居場所を持つことができたようでほっとしているこの頃です。

毎日、製造ラインに立って流れゆく時の流れをまだかまだかと過ごすばかりです、

意外にも立っているだけでこんなに足に疲労がたまるとは…

本や映画の感想や引用で、何か見つけていきたいのですが、何も読んでないし見ていないから…できない。

 

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災い転じて美女となす

輝かしい夏もいつかは終わる。何人ものスターたちが、卒業すると魔法がとけていく。ただの若い社会人になり、私の身近な人間になる。あの頃、私はそれがたとえようもなくせつない哀しいことに思えた。
美女入門プレイバック 災い転じて美女となす (マガジンハウス文庫)

美女入門プレイバック 災い転じて美女となす (マガジンハウス文庫)

 

林真理子さんのエッセイ。

この一文がものすごく共感できなくて逆に気になった。小、中、高とクラスメイト達をスターと認識するほどちゃんと見てなかったし、単純に友達がいなかったのだ。根暗な自分と明るい教室が対照的だったのをすんごい覚えてますよ。(なんだよウザってえな、とか思われても構わないから話かければ良かったのかな?)

思春期というのは、みんな家庭がある、家族がいる、というだけで憂うつだった。

ならばまだ思春期なのかもしれない。いちいち干渉されるのが鬱陶しくてもう。

みんなというのは、どのみんななんだろう。同級生の人と遊ぶのが楽しくてそれを邪魔する親とかが嫌になったり、そういうことなのかな。親を煩わしく思う人なんて大人だって沢山いるよね?結婚からの親と同居で口論になるとかこれの延長線にあるんでねえの?

他の、と書きたいがテレビか本でしか他の家族について知ることができない。みんな親とどんな話するんだろう。

「あなたね、青春は一回きりしかないのよ。いま頑張らなくていつ頑張るのよっ」と注意しようとして、言葉を呑み込んだ。彼女はまさしく高校時代の私である。痩せるという内面の葛藤を、人にあれこれ言われるのはどんなにイヤなことか私は知っている。劣等感にプライドがこびりついている。それが肥満ということなのだもの。若さは実はいろんなことを邪魔しているのだ。

その人が若いというだけで、希望がある、明るい将来がある、というのは偏見です。劣等感にプライドがこびりつくって表現は的確だ。だけど年齢とともにはがれおちるもんでもないな、とも思った。

高校時代の自分に声をかけるとしたら、…進学をやめろ、かなあ。

まあこっちパターンをはずれと決めるのはまだ早い、いや、そんな判断しなくていいのか。今の自分を好きになることが出来ればきっと。

…この頃から私は、自然に、「女子大生募集」という類のものに、自分は応募してはいけないということを知りつつあった。女子大生と銘打つからには、水準以上の容姿や華やかさを求めているのだ。

いつからだったが覚えていないが、自分も行間を読むようになった。んでどこにも行かない、という現在に至ってしまった。人が当たり前だと想像するそれとだいぶ自分が違うようだと自覚したからだ。

友がみな我よりえらく見える日は

「その髪型サザエさんですよって職場の若い子に言われた。その前は前髪が長くて上に立ってたんで、彼岸花っていわれてた。どうせ見せる人がいないんだから、サザエさんでも彼岸花でもいいんです」 

友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)

友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)

 

 

容姿に自信がなく、46歳まで男性と交際したことがない女性。などの方々のドキュメント。

“友がみなわれよりえらく見ゆる日を花を買ひ来て妻としたしむ”と石川啄木は詠んだ(らしい)。分かんないけど劣等感にさいなまれて落ち込んだら花を買って奥さんと親しんどけ、みたいな感じかな。

じゃあ一人の人間はどうしたらいいのかね。むしろ、配偶者がいない人間の方がそういうの多いでしょうに。

そもそも悲しんでいる時に、誰か傍に居て欲しいと想うものなのだろうか。気が紛れるのか、気持ちが落ち着くのか分からないが。一度でも…一度でも人のぬくもりに触れた(?)人はいてほしいだろう。寄り添う人がいない時間が長いとさらに美化されてしまうかもしれない。でもそれがない人はなぜそれを望むの?どうして欲しいのかな?って考えると、やっぱり想像でしかないんだよね。小説、ドラマ、漫画、映画etc.“恋愛”とかを題材にしたものは数え切れない。煽られて煽られてある日ふとそれを自分の人生で実現するのは無理なんだと、空しい気持ちにさせられるのであれば…馬鹿馬鹿しい。

私よりひどい生活をしている人はいっぱいいる。私より孤独な人もたくさんいる。私より大きな不安を抱えている人もいる。そういう人たちと較べたら私はずっとまし 

こんな状況でも誰かと比べるのか、と一瞬思って、頭の中ではこれに比べればましだな、と優越感に浸っている自分がいた。

結局そうなんだ、他人を見下したいんだと思う。普段の生活では、何したって人より劣っていて自分は無能な奴なんだ、と劣等感の塊みたいな人間がこの本読んで、良かったこんな風にならないで。と優越感に浸るためにこういう本を描いたんでしょう。

〝友がみな我よりえらく見える日は〟(この本読んで自分より劣る人間がいることを知って喜びなさい)

って解釈できた。

 

困ってるひと

「救世主」は、どこにもいない 。ひとを、誰かを救えるひとなど、存在しないんだ。わたしを助けられるのは、わたししかいないのだと、友人をとことん疲弊させてから、大事なものを失ってから、やっと気がついた。

困ってるひと (ポプラ文庫)

困ってるひと (ポプラ文庫)

大野更紗さんの難病との戦い(?)を綴ったエッセイなのかな。文中では闘病記ではないと言ってるが、確かに病気との闘いというより、国の制度とか、特定疾患の申請、診療報酬、身体障害者手帳の申請など聞きなれない敵との戦いみたいなものが繰り広げられていた。入院生活においても生活物資は必要なわけで、さらに役所に申請とか行きたくても大野さんは自由に移動出来ない。だが、大野さんには素晴らしい友人がたくさんいて、みんな色々してくれる。必要なものは買ってきてくれるし、欲しい書類はとってきてくれる。だけども、ずっとそんなんが続くとみんなの心の負担になってきて、関係が切れてしまった。

家族にも、友人にも、病院にも、ソーシャルワーカーさんにも、これ以上頼れない。他人にとって、わたしは「迷惑」をかける存在でしかないのだ。「迷惑」そのものなのだ。

このエッセイには、人に頼る頼られるの関係性は想像以上に複雑なんだな、と思わされた。なんだろう、その人を思う気持ちの度合いとかで違うのはもちろんだろう。ただの友達、知人、親戚と兄弟、夫婦、親とで相手にどこまでの事をしてやれるかに差が出てしまうのは当たり前、それは解ってるけど、そんなこといつも考えてたら寂しくてしょうがない。一生懸命忘れようとする。だってちょっと挨拶するだけの人、職場の仲のいい同僚、仲良くなりたいと願えば願うほど“他人”という概念は必要なくなるから。

でも身の回りの人を仕分けするのは、残酷にも不幸なことが起きた時で、当人は二重に悲しむことになる。

誰にも、頼ってはならない。誰にも、話してはならない。誰にも。

わたしの心は凍った。

ビロウな話で恐縮です日記

あれっ、意識が飛んでいた。昨日、日記をつけたと思っていたのに、いつのまにか日にちが空いちゃっている。おかしいなあ。

あわてて手帳をたしかめたら、そのあいだも着々と仕事をし、原稿を各所に送り続けていたようである。えらいぞ、俺。がんばってるな、俺。今日は夏〇ミもあるし、気を抜かずにいまのうちに仕事せなあかんのや。餌与えれば馬は走るんや。ぬおーぬおー。

ビロウな話で恐縮です日記

ビロウな話で恐縮です日記

べつに本を読むことから何を学ぶとか、どんな意義があるとかいちいち考えないたちなので、あの風が強く吹いている船を編むを執筆なさった三浦しをんさんが書いているエッセイというだけで胸が高鳴る。あの素晴らしいお話を書いた著者、魅力的でないはずがない、ハードルがあがるあがる。

一人称が俺ってなってる(笑

ガス会社のおっちゃんと大家さんのご尽力により、給湯器が無事に直った。正確に言うと、直ったのではなく全取っ替えだったのだが…。

給湯器を一目見て、「買い替え!」と非情に宣告するガス会社のおっちゃん。

「そんな……!部品を取り寄せてやってください!」と縋る私。

ユーモラスなやり取りはえ?本当に?と思ってしまう。寝不足にこういう本読んでると眠くなる。まあ寝不足のせいなんだが、ゆったりのったりしてる空気が…。

 

テレビとかもそうなんだけど普通に生活していたんではわからない様な世界があって、知らんでもいいようなこともあるような気がするけど。

まあよかったと思う。誇張しているわけでなく、自分のほかの人の人生をこんなに…(華々しい、鮮やか、格好いい、綺麗…)と思わせてくれる本と出会えて、そしてそういうお話を描くことができる方を知る事が出来て。

銀色ナイフ

今の自分以外の、自分よりも苦しい立場におかれている人を、全然違うものみたいに思える人は、のんきな人だ。危機管理の出来ていない人だ。そういう人は、まさか、自分に限ってと、思っているのだろう。だから、ひとごとなのだろう。怖いのだろう。怖いから、見たくないのだろう。

銀色ナイフ (角川文庫)

銀色ナイフ (角川文庫)

銀色夏生さんのエッセイ。

書籍というより、この人の話を直接聞いているみたいな文章。そして、テーマが細かい。

「ひとりひとりに、それぞれの別の世界がある」というのは、「世界は同じだけど、その中から自分の好きなものだけを選択的に見ている」と同じだ。嫌なことだらけ、って言ってる人は、その人自身が嫌な人なんだろう。

ああそういうことか、となんか嫌なことだらけの自分の日常は自らに起因しているらしかった。なんとも思わない物、事は通過出来るのにわざわざ嫌いなものを選び取って頭に印象つけて落ち込む、本当にどうしようもない奴。

人はつねに謙虚でいなくてはね。特にいろんなことがよくわからないうちは。純だから、一生懸命だからいいってものじゃない。純粋さが暑苦しいこともあるのです。

なるべくそう心がけてはいるが、他人に求めていいものなのかどうか…。

見知らぬ人に親切にすることは簡単だろう。難しいのは、嫌いな人にやさしくすることだ。

それは出来ない。もしやさしく出来たら、本当は嫌いじゃないんじゃないかって思ってしまうほど難しい。例えば、自分を殺そうとした人間を助けるとか、映画アニメの話であり得ない。嫌いな奴と普通に接するだけでも体力いるのに、ましてや何でやさしくできようか。

そして私は一人になった

いつか、一人じゃなくて誰かとくらし暮らしたいと思う日がくるのかもしれないと、ちょっとだけおもった思った。

そして私は一人になった (角川文庫)

そして私は一人になった (角川文庫)

なんでだろう。この本を手放したくないって思ったのは、…なんとなく?か…ちょっと今の自分では言葉にすることが出来ない。ていうかほとんど出来ないんだけどね。

この本だけじゃないんだけど、一人ということを強調するためには誰かといる時と対比しなくちゃならないはず。この本ではそれが柔らかい感じに書かれているのかな、とも感じた。ヒトの日記を読んでいると、大抵頭に浮かぶのは、どうでもいい、か自分はこの先こんなうにはなれないだろうなって諦め。だってみんななんだかんな云いながら頑張ってるし。自分で自分の食いぶち稼いで、周りの人のことも考えて生活して…これ以上ないじゃない。ドラマとか映画みたいな劇的なものは非日常的

 

いや勿論羨ましいと思う気持ちもあるよ。でもそれを自分にあてはめたって暗くなるだけ、何にもならない。この野郎やってやる、って感情がこない。

他人と関わるってことはさ、色んなものを共有する事と同義でしょ。時間も空間も匂い、雰囲気とかあと心も。そんなんばっか考えてたら怖くなるよね。結局堅いんだから考え方がさ。無理をしてでも一歩踏み出さなくちゃいけないのに、そうやって逃げてきた代償がもう山積みなのに、もうイイ大人なのにどうして…なんでぼくは…いつからこんな奴になっちゃったんだ、本当に死ぬ気なのか?ちゃんと生きるつもりがないのか。